三越の催物場で新進陶芸家の個展があったので行ってみました。
二つ三つ見て面白いな!と思って一巡、場外に出て、工芸品賣場の休憩室に休みました。一服しやうと煙草を出すと、机の上に陶製の大きな捥形の灰皿が置いてある、何の気なしに眺めてみると、その厚手の燒の重々しさと、彩色の妙が合致して、とても美くしい、名ある陶工の作に違ひない。
で同行の人に云う、此の陳列柵の中のあの青銅のつる首も、こちらの青磁の花筒も、あの備前らしい切だめも又、此の机の上の灰皿も見て居て飽きないものでせう、一奌のスキもない様に、注意深く、親切に眞劍に作られてあるから、見て居て心落着くものでせう。
此のやうに正しく、美くしいものは机の上、柵の上に置いて、毎日眺めて居てる飽きません。ところが今、見て来た陶芸品は、ちょっと一目には面白いな!!と感するけれど暫く持ってゐたら飽きるでせう。土も粗悪、急いで作った感じ、彩色も新奇をねらった思ひ付きのもの、形は、コレデモカコレデモカ、あの陶芸家は、近頃急に有名になりかかったので個展を行う、その為に急いで大量に作ったものでせう、新らしい新らしいと云うことで、旧来のものの良きに勝てるものではないのに。
今の展示のものと、此の陳列柵の中のものとは、一つ一つに制作者が熱心であったか、眞劍ではなかったか判るやうな気がしませんか。
思ひ付きはすぐ飽きられるものです、眞劍になって、永い鍛鍊を注入した作品は何時までも人を引き付けるものです。
毎日の生活もそうです、事業も思ひ付き程度で始める人があるけれど、それは到底成功するものではない。
思ひ付きで其の場その場で喋る人もある。人には信用を失ひ、自分でもどうしてよいか判らなくなってゐる。
珍奇な生活人気の対象となる生活とは、みんな思ひ付きから始まっては居ないだろうか、人に飽きられるより、自分が自分に飽きない為に、毎日毎日を眞劍で丁寧であるべきなのである。
