故に、思ひ付きは個人的なものであるが、それが社会一般の風潮だとすると、本来自分そのものの思ひ付きに「附和雷同」しようとする、これが流行となり、その大衆の附和雷同を上手に刺激した者が、成功者となるのである。みんな、個人の頭腦の貧困と、思ひ付く力、即ち獨創力の貧弱さを示してゐるのである。だから、デザイン学校も出来、アイデア賣りますの時代になる。
この思ひ付きの為の思ひ付きの貧困は流行界だけでなく、生活全般に、経済に、国家の政治にすら、獨自性をなくして終って、獨自性を持ちたいことで、尚ほ更ら、「思ひ付き」的な衝動を起させてゐるのではないか。
一生けんめい、毎日の様に作くられてゐる「思ひ付き」がそんなに新らしいものかと云うと、チヤンと、昔に出来てゐるのである、古代の芸術作品の中には、現代的と稱するものが全部揃って居る、殷時代のものと云ふ陶器の図柄は現代の派手なものよりもっともっと大膽なものであるし、トンコウの壁画の人物の踊りの姿はジャズよりも、ツイストの踊りよりもっと早いリヅムらしいものもある。
