「さて、今日は一つのたとへ話をしようじやないか。此処に一人の若者が倒れてゐる。胸に一本の毒矢がさヽって居るのだ。介抱する多勢の人達は大急ぎでその毒矢を抜こうとするのだが、その若者は手をさへぎって斯う云う。
“待って下さい。この矢は何処から誰に射られたものですか、何月何日に何処でどの様にして生れた何と云う名前の者にどの様な弓で射たれ、そして此の矢は一体竹で造られたものか、或は柔らかい木で造られてあるか、その竹や木は何處の山に生え育ったものか、又、付いてゐる羽根は何鳥の羽根か、何番目の羽根でその製法は、それを作った人、その人の生ひ立ちは又、此の矢に塗ってある毒は、どうして、誰が何処で何時斯んなことを云って居る中に毒は全身に廻って死んで終う。
要は、そんな矢の来歴のせんさくではない。素早く毒矢を抜きとって、毒を制する為にくすりを塗り、薬をのむ事である。矢の研究、弓の調査、事情の釈明は後でよいではないか。今の話で皆も理解した事と思う。
常に目の前の苦を排除すれば良いのである。毒矢の本質を知って居る事は最もよいことであるが、その毒矢即ち”迷ひ”が胸につきさヽって居る時、今、為めに命を失おうとして居る時、何より早くその苦しみを抜きとることが先決である、それは矢を抜く事に慣れた医師によって手当せられ正しい事を正しく與へられることである。」
