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「片片草」 開放-2

著者:若月佑孔 / 元ブログ投稿日:2025-08-20

 

斯うなってはもう「宗教」ではない「執教」になって終う。


ところが、信仰のない、とくに唯物論者的に信仰は迷信さと云う人に限って、いろいろの人の人生觀や理論を噛り集めて、如何にも人生を割り切った様に理屈張って分った様な顔をして居るが心の中では、非常に不安でゐる、だから、自分に対する外界からの刺激や批判には驚く程警戒的、反撃的で、どこまでも自心の弱奌を防護しようとする。


理屈の為に理屈を作ってゐるのである。
これも一つの「執教」になって終う。


湯川博士が五六年前、アメリカの旅行から帰って来た時の隨筆にこんな事を云って居られた。何新聞であったが、短い論文の形であった様でもある。


「アメリカは實に合理的な国である、大は国家の運營、小は個人の生活の物心兩国に於て、合理性は實に遺憾なく發揮されてゐる、然し其処に個々人の個性が發揮されてゐない、これが文明国アメリカの悲しみではあるまいか、自分は永くアメリカに暮してゐて、今、東洋に帰って漸くそれを悟り得たのである。と云うのであった。


即ち、アメリカは合議の政治を行って居る、これは日本にも当てはまること、然しアメリカではこの合議が一般人個人の生活にまで徹底してゐて、或る個人が一つの事を行うに当って、先づその合理、不合理を考える、次に四囲の人に意見を求める、それに依って可否をきめる、そして、其処にはもう個人の自由は見られない、自由主義の生活、合議、合理の社会を作って、その合理的な生活の追求は、遂に個人の自由を無視して終ふ結果になった、其処には、大衆の世論と、四囲の人の批判ばかりで、個人の意見はない。
 

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