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「片片草」 自福-2

著者:若月佑孔 / 元ブログ投稿日:2025-09-09

 

「お父さんは貧しいけれど貧乏ではないんですね」田舎の女房が云った。まさにその通り、貧と云う字は、分、貝と書く、貝とは古代ではお金、戝産を意味する、で、貧しいとは戝を分けると云うこと、分けて持ったら少ない。少ししか持ってゐないのを貧と云う、貧乏人とは、貧しさに負けて、心が根情が「いやしく」なった者を云うのである。心が欲得でいやしくなっては、どんなに金銀戝寶を積んでゐても、貧乏人なんだ。

こんな貧乏人に蓄へて抱へ込まれてゐる戝産こそ可愛そうである。

貧しい暮しをしてゐたって良いじやないか。只、それをカクシテ金持ちしく見せやうとすると、心が貧にとらはれてゐる。貧乏人になって終う。

良く見せようとするところに無理とみにくさがある。水野南北は、どんなに不運であり、貧窮しても、三年間、食事を質素にととのへることに依って、必ず運が開けて来るものであると云ってゐる。

その三年を謹しむことに依って、自分の四囲を自分の健康も態度も自然に整って来る、整って来ることは一切の「運、はこび」が正しく行はれて来る、其処に次の発展が必然的に約束されるものであると云うのあの人は「運がよい」と云はれても、成功者と云はれても、その人がもうこれ以上に發展しないものであるなら、その「運がよい」ことも「成功」も価値なしである。発展のないことはもう生命の無い事を意味して居る、これから次第に枯れて行く木のやうなもの、それは何処かに「運、はこび」の無理あかることを示してゐる。
 

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